母「けい」の旅路
42才にして身体が不自由になった伴侶の手となり足となって何十年。
父が倒れた時、母は35歳の若さでした。
私「MEME」が3歳の時の出来事です。
お腹の中には臨月を迎えた妹がいました・・・。
戦争勃発、戦中・戦後の苦悩。
医者の娘として何不自由なく育った「けい」ですが、頑張りました。
両親に頼ることなく自力で立ち上がり、父もリハビリの甲斐有って職場に復帰。
左手での自己特訓で、見事に返り咲きました。
父はその時、国営事業に携わっておりました。
七人の子供を抱えての戦中戦後の奮闘は想像を逸したものでした。
只でさえ食料難の時代、7人の子供がお腹を空かせて待っている・・・。
仕事の傍ら、近所の空き地を借りての畠仕事も左手だけでこつこつと耕していました。
勿論、母も慣れない手で一緒に仕事を手伝い、時には、余りの疲労から
畝と畝の間に身を横たえて雲の流れを見ていたこともしばしばだったと話していたことを思い出します。
庭から「お〜い、帰ったぞ」という父の声を待っていました!と、ばかり、
銅がねのバケツに水を一杯、よっこらしょと縁側に運び、腰掛けた父の泥だらけの素足に
上からたっぷり濡らした雑巾を絞って水をたらたら垂らし、足を洗う仕事が私の役目でした。
そこで収穫したサツマイモは、蔓から葉まで全て無駄なく母が料理して
皆で美味しく頂いたものです。
干した蔓を水で戻して、油で炒めてから醤油味で煮たものなど、
ワラビのような舌味で美味しかったのを覚えています。
★
人三倍は頑張っている父の姿・・・。
記憶にある父は既に、足を引きずり、右手が麻痺し、しゃべり方が少し重い、そんな父でした。
私は父の左手だけで成長させて貰いました!
若い時の長身でスラリとしたハンサムな父は、写真の中で見ただけです。
慣れない左手での仕事は、どんなに頑張っても人より遅くなる・・・。
時は、不景気でリストラの嵐の時代。
でも、父の人徳からか、仕事は続けられていました。
右半身をひきずるような父の面影しか知らない私。
頑張りやで、あったかで、「けい」を愛し続けた父。
そして、7人もの子供をそれぞれ一人一人を大事に愛してくれた父。
77歳まで現役で仕事を続けていたそんな父が倒れたのは、母が70歳の時。
そして・・・。
いろんな荒波を乗り越えたところで迎えた伴侶との別れ。
50年余も母は、毎日父の身体の周りを駆け巡っていました。
着物を着せること、靴下を履かせること、お風呂で身体を洗う事・・・。
何もかも彼の右手になり代わっての24時間でした。
そんな右半身不随の父との二人三脚のような日々からの、
突然の悲しい開放に、空虚感は計り知れないものでした。
そんな時、ふと、遠方に嫁していた私の家に遊びに来ていて、
何気なく手にした息子の教材のキャンバスと、固くなりかけた5本の油絵の具。
それを手に取ったとき、母の心は波打ちました。
今まで押さえに押さえてきた、というより、無我夢中の人生の中で、
すっかり忘れかけていた「絵心」が、音を立てて湧き上がってきたそうです。
幼い日、雨が引いた後の庭の土が、綺麗にナラサレているのをキャンバスに見たてて
夢中で絵を描いたあの日の興奮が、七十の母の心に、時を越えて戻ったのでした。
医家で育ったため、患者の気持ちを重んじた「家風」として
歌舞音曲は勿論の事、いわゆる「軟弱」を極度に戒めた母の両親の方針から、
「絵を描く」などという行為は「軟弱!」と戒められていたのだそうです。
だから、こっそりとそんな風に庭の片隅で描く絵を楽しんでいた幼い日の母。
結婚してからは、戦中戦後にかけて7人の子供を育てることで手一杯。
暫くお手伝いさんを付けて貰っていた優雅な新婚時代はほんのイットキで、
時代の変遷と父の不慮の病気で、もみくちゃになって生きてきた母。
意識することもなく、自分なりに絵心を封じて七十迄。
★
父が亡くなり、医者の兄夫婦と同居していた母の
「絵心」の封印の「こより」が解けた瞬間が、遊びに来ていた私の家で手に取った
キャンバスと油彩絵の具。
「私に描けるかしら・・・」
おずおずと筆を取って描き始めた母。
夢中で描いている母は、ほてった赤い顔で昼食の時間さえも惜しそうに上気していました。
いっきに描き上げた風景画は、父との、数少ない旅行で見た景色だったのでしょうか。
緑の山はだから音を立てて流れ落ちる滝の絵でした。
心に刻み込まれたイメージだったのか、
キャンバスに向かったまま無言で描き続ける母は、夢中でした。
新潟に帰ってからの母は、同居している兄一家の応援を受
けて、思う存分描き始めました。
毎日、油絵の具の中で過ごす日が続き、はや二十数年。
★
そんな母も、九十歳を超えました。
書きためた絵は、子供や孫に手渡したりするだけで、誰の目にも触れないできました。
絵を描くきっかけを作った私としては、皆様に、
こんな生きかたをしている九十二歳(*現在は97歳)の母の絵を見ていただき、
何かを感じていただけたらと思い、公開に踏み切りました。
「あなたにあげた昔の絵が見たいけど、千葉まではもうとても行けないわ」という母に、
HPの【けいの部屋】を通じて見てもらうことが出来るなんて、夢のように凄いことです。
身内に散らばった絵を、母の孫達や婿達や嫁が写真に撮って来てくれ、
送ってもらった私が編集するという形式をとり、
周りのみんなの力がここに集まりました。
大きな激流のような時代の変遷の中を、けなげに生き抜いてきて、
やっと安息の日々を送っている母の姿に、
この日々がずっと続きますようにと祈らずにはいられません。
さすがに九十の声を聞いてからは、油絵の具を開くのが億劫だと
言い始めましたが、これからは、スケッチでもいいから、
この「絵心」を持ち続けてもらいたいものです。
みなさまのご感想をお聞かせいただいて、それをエネルギーに
換えていってくれたらと願っています。
MEME
1999/4
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追記 ★★ 「けいの部屋」久々の新作品UP ★★
高齢なMEMEの母「けい」は、90才位からなかなか油絵の道具をを開こうと
しなくなりました。無理もないことです。
悲しいけれど気力がとても薄くなって来たような感じがひしひしと伝わってきます。
一年ぶりに新潟に住む母「けい」に会ってきました。
またまた一回り小さくなり腰も曲がって来た様子。
それでもみんなに会えるうれしさを身体全体で表現して、にこにこと話に
加わってくれていました。(甥の結婚式の為集まりました)
その時、母が前に言っていた「昔のスケッチが少し出てきたのよ」の言葉から
「家捜し」をしてみましたら、何とかUP出来そうなスケッチを見つけました。
早速そのノートを借りて帰り夢中で「けいの部屋」の更新をやりました。
見てやってくださいませ!
明治のおんなの感性を。そして、色香を・・・。
若い頃の「けい」はとてもうつくしい人でした(身贔屓ですが・・・)
父兄会ではみんなに「きれいね」などと言っていただき、うれしかったものです。
その頃の母を彷彿させる(?)着物姿の女の人を鉛筆書きで描いたスケッチです。
勿論自分を描いた訳ではないのですが、あの頃の明治の「麗人」を
こころの何処かでイメージして描いたのでしょう。
とても懐かしいような、悲しいような、うずうずとこころに掛かるこの思いは
いったい何なのでしょうか・・・。
香り立つようなあの頃の母の面影と、今の小さくなった「けい」と・・・。
そのギャップに涙が溢れます。
みずみずしさと、少しの憂いと、しなやかさを含んだ仕草と、・・・。
こんな絵を描いたこともある「けい」92才に、励ましのメールをください・・!
今は「何も出来ない自分」をとても情けないと真顔でいいます。
それでも「けいの部屋」へのご批評・ご感想のコピーを綺麗なお菓子の箱に
大事に大事にしまっていて、うれしそうに見せてくれました。
5枚の「女人画」をUPして、胸が一杯なMEMEです・・・。00/10/16母「けい」の為に、少し時間をくださいますか?・・・。