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管理人の日記ログ
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こういうフワッとした言葉が、機械の苦手な高齢者層に刺さるのでしょうね |
日本は、製造業に優れた国とされており、「日本製」…つまるところの「Made
in JAPAN」ということが、一種のブランドとして考えられている。そして、それを我が身のことのように誇りに思っている読者の皆さまも多いであろう。しかしながら、本日の私は、「『日本製』は買ってはいけない!」という、恐らく多くの人々がいだいている感情と全く逆の提言をしてみたいと思う。
…まず、私がこのような意見を持つに至った過程から説明してみよう。ある日、私の知り合いが、性能の低いスマートフォンに困り果てていた。そのスペックを調べてみると、「本体ストレージ:16GB」「画面:有機EL」で、CPUも世代相応の物と、決して極端な低性能ではない。しかしながら、自由に使える空き容量は5GB程度と、極めて悲惨なことになっていた。やれ、実質のストレージ容量は、「本体基本ソフトの占める容量」や「計算方法の違い」によって、表記より必ず少なくなるのであるが、いくらなんでも16GBを謳っていて5GBというのは酷すぎだろう。また、画面は有機ELらしいが、明らかに発色がくすんでおり、私の使用している液晶のスマートフォンよりも汚く、どう見ても有機ELの色では無い。そもそも、仮にそのスマートフォンが有機ELを積んでいたところで、有機ELは目的ではなく手段であるため、結果としての画面が汚ければ普通にアウトである。以上、総合して、まだ海賊版と考えたほうがマシなくらいのスペック詐称であり、粗悪品としか表現しようのないスマートフォンだったのだ。
――そして。重ね重ね私を呆れさせたのが、そのような粗悪なスマートフォンを製造したメーカーが、あろうことか「日本のものづくり(笑)」とやらを声高に宣言していたということだ。なるほど、ならば「日本のものづくり」とは、スペック詐称の粗悪品をブランドだけで売りつけるということなのだろう。かくして、私の「日本製」という言葉への信用は地に落ち、ついでに日本社会全体に対する信頼度も更に下がっていったのである。
では、なぜ「日本製」という、一般に優れた製品の代名詞と受け取られる言葉から、そのイメージとは真逆な粗悪品が生まれてしまうのだろうか。そのカラクリは、現代日本が抱えている社会問題を紐解くと、自然に見えてくるようになる。
…まず、現代日本社会の一番の問題は、とにもかくにも「高齢化」である。純粋に子供の量が少ないということはもちろんだが、「お金を使う層」や「選挙に行く層」「メディアを楽しむ層」など、社会を動かす全ての要素が、どんどん年を取っていってしまっている。例えば選挙では、わざわざ数字を引用するまでもなく20代の投票率は最低であり、しかも20代は絶対数まで少ないため、国政への影響力は極小である。だから、客商売の政治家は、高齢者ばかりを優遇した政策を取らざるを得ないのだ。そして、このことが製造業にも当てはまる。若者は、数が少ないうえに消費活動を積極的に行わないが、中高年の層はその逆だ。よって、日本の製造業は、老人向けの製品を優先して作るようになっていくのである。
――それでは。どうして老人向けの製品を作ることが、「@『日本製』を謳った」「A粗悪品」という結果になるのだろうか。その理屈も、正攻法で考えれば見えてくる。まずAだが、中高年〜お年寄りの層は、若者ほどは機械に詳しくなく、その性能の良し悪しを判断することができない。ならば、無理に高品質の端末を使う必要は無く、性能は低くて良い。これ自体は、まったく正しい理論であるが、そういう粗悪品はだいたい値段が粗悪品のそれではないからいただけない。また@の「自称『日本製』」のほうであるが、どうも最近になって気付いたのだが、中高年以上の層というのは、「日本製=高品質」という価値観に絶対の信頼を置いているようで、「日本製」という言葉が付くと簡単に騙されてしまう。恐らく、彼らが育った時代が、そうさせるのであろう。かくして、力足らずで粗悪な製品しか作れなくなったメーカーが、率先して「日本製」のブランドイメージに頼るという地獄絵図が生まれたのである。
ならば。「日本製」は高品質とは言えなくなったから、もう買ってはいけないのだろうか。言うまでもなく、そんなことは無いのである。
…例えば。私が最も愛用しているゲーム専用機の「プレイステーション」シリーズは、全ての性能のバランスに優れ、現在のゲームの世界標準を作り上げるものとなったが、その手触りの良さや高品質なサービスなどは、間違いなく「日本製」のそれである。その他の機械でも、パソコンの「VAIO
Pro13(2014)」や、ゲーム用ディスプレイ(「テレビ」)の「REGZA 40M500X」などは、日本メーカーの製品であり、私が酷使したうえで愛用するところになっている。また、他にも「優れた日本製」の例は枚挙にいとまがなく、ナイフを使わなければ開けられない海外パッケージに対して素手で開封できるよう工夫された日本製、手が汚れずに食べられる日本製のお菓子に対して袋を力任せに開くと中身が吹き飛ぶ海外製などなど…。「日本製」だからこそできる微に入り細を穿った配慮は、2010年代も終盤となった今の時代でも、立派に世界に通用をするものなのだ。
――つまるところ。我々に必要とされるのは、端的に言うと「物事の真贋を見抜く能力」なのであるが、そんなものは一朝一夕で身につくものではなく、このような大学生並みの一般論には何の力も存在しない。そして、高品質の物を作れなくなった企業は、宣伝工作のほうに力を入れ、ありとあらゆる手で低品質の物を高品質だと偽って売りつけようとしてくる。ならば、「日本製」をそういう言葉であると覚えてしまえば良い。つまり、である。「日本製」が粗悪品なのではなく、自分から「日本製」を謳っている製品が粗悪品ということなのだ。その理由は前述の通りであり、「日本製」という言葉に絶対の信頼を置いている中高年以上の層が、そういった製品を積極的に買うからである。やれ、「日本製」に限らず、こういうフワッとした言葉が使われた場合は、まず疑って掛かったほうが良い。「やりがい」然り「ゲーム性」然り「優しい味」然り「愛国心」然り「モテる」然り。
そんなわけで。「日本製は買うな」という衝撃的な書き出しで始まった今回の日記であるが、内容をしっかり読んでいただければ、恐らく多くの人に共感していただけるものではないだろうか。繰り返し言うが、「日本製」が駄目なのではなく、「『日本製』を宣伝文句にする製品」が危険なのである。
…まったく。世間では、よく「金を持っている高齢者層がお金を使えば経済の活性化に繋がる」などと適当な擁護をされることが多いが、例えばいざ自分の親がそういった製品に騙されてしまうととても不愉快であるし、それで粗悪な製品が日本社会に行き渡ってしまえば、「悪貨が良貨を駆逐する」がごとく、最終的に全ての人が不利益を被るようになる。当然、そんな「経済の活性化」が、社会を豊かにするはずもないというものだ。
――やれ、平成が終わろうというこの時代になって、我々の価値観は曲がり角に来ている。その大半が「高齢化」に端を発し、今や社会のありとあらゆる面が限界集落への道を歩みつつある。我々は、旧来の価値を疑い、本当に「豊かな社会」を実現するとはどういうことかを考え続けなければならない。今回の、「日本製」に関するエピソードも、その一つである。この文章を読んで、あなたはどうするか。その道が、真の豊かさへと繋がっていけば良い。
(2018年1月18日)
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