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管理人の日記
「一緒にカバやってくれる仲間」←アフリカか?
新春である。この時期には、新年会・同窓会などで、かつての友人と再会する人も多いであろう。ところで世間では、そういった知り合いの中でも、とりわけ“特に親しかった同性の数人”を指して、「一緒にバカやってくれる仲間」などと表現することがある。コレ、誰が使い始めた言葉かは不明であるが、多くの世代で使用されている表現のようだ。では、その「一緒にバカやってくれる仲間」とは、果たして何のことなのだろうか?
・・・まず、その定義(?)から振り返ってみると、「一緒にバカやってくれる仲間」とは、「@特に親しかった」「A同性の」「B数人」であると書いた。「@特に親しかった(“親しい”)」は、まあ“前提条件”とも言えるものであるが、具体的には「学校行事以外でも声を掛けて集まれるような人間関係」を指すだろう。また、「A同性の」ということは、そのグループ内に存在するのは「恋愛関係」ではなく「友情関係」であるようだ。そして最後の「B数人」は、まあ0人では仲間にならないのは当然としても、1人よりそれ以上の複数人を指すことが多いと言える。
――もちろん、「一緒にバカやってくれる仲間」という言葉に、明確な定義などは無い。しかし、上で挙げたような条件は、多くの人が納得してくれるものであろう。それはつまり、「バカをやってくれる仲間」という件に関して、我々に何らかの共通意識が存在するということになるのだ。それは、果たしてどういう意味なのだろうか?
では、「一緒にバカやってくれる仲間」という言葉が、特に親しい人たちへの愛称として使われている理由を、端的に述べてみよう。それは、「自分の弱いところを共有できているから」である。
・・・そもそも、人間は誰だって得意な面と苦手な面が存在するもので、どれだけ外からは完璧超人に見せていても、内面的には必ず弱いところが存在する。だが、そういう自分の弱点を伝えたうえで、それでも付いてきてくれるという人には、強い親近感を感じるというものではないか。逆から見ても、ふだん強い人がふと人間らしい面を見せた時に、嫌悪感を抱くという人は少数で、多くの人は深い同情心を持つことだろう。それが、「バカをやってくれる仲間」という表現が愛称として使われている理由なのだ。人は、弱みを見せることで、逆に親近感が深まるのである。
――ところで、この「秘密の共有」は、単に友人同士だけでなく、様々な人間関係にも拡張できる要素なのだが、このインターネット時代ではネット上で全てをひけらかしているため、見せられるような弱みが存在しないという人が多いかもしれない。その時は、(
^o^)「俺は明るく振る舞っているが、実際は人にどう思われているか気になって仕方無いんだ」などと言っておけば良いだろう。そのような感情は誰もが持っているため、簡単に同情心を得ることができるし、そこから話を実体験に広げていくことができるかもしれない。まあ、これは一種の「テンプレート」のようなもので、特に具体的な意味は無いのだが、だからこそ正しく使ってほしいというものである。上手く使えば、その効果は抜群だ。FF8のスコール君などは、その最たる例である。大切なことは、みなゲームが教えてくれた・・・!
そんなこんなで、「一緒にバカやってくれる仲間」とは、つまるところの「弱みを共有した親友」のことであり、逆説的な強い信頼関係によって結ばれていることが分かった。
・・・さて。ここで扱っている「バカ」とは、具体的には何のことなのだろうか。その多くは、せいぜい深夜まで遊び歩くとか、ちょっとだけ社会的に悪いことをやったとか、異性にアピールするために協力したりだとか、ごくごくどこにでもある物事であろう。逆に、「3人の義兄弟が天下統一を誓った」などという行為だと意識が高すぎて駄目であるし、「一流大学に入ったが何もせず頭カラッポで放り出された」などというのもリアルすぎて嫌である。あくまで、多くの人に分かってもらえるような、小さな、しかし有り触れた「バカさ」が好まれるのであろう。
――というわけで本日は、そんな「有り触れたバカな画像」というものを、幾つか掲載してみることにしよう。もし、これらの人々に同情できるのであれば、それはこの人たちと「価値観を共有できる」ということかもしれない。人は、弱みを見せることで、より深く分かり合える。この新しい年を良い機会として、そのような「人の弱み」から他人を理解してみるというのもいかがだろうか・・・?
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(2013年1月4日) 4417 PV
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