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「勤勉」という日本人の“悪習” / やり込みinFF

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管理人の日記
こんな価値観は、平成と共に終わりにしましょう。

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下の世代が潰れて死ぬまで、この悪習を続けますか?


 日本人は「勤勉」な民族とされている。これはまったく正しいことだろう。本日は、この
悪習をどうすれば取り除けるかについて考えてみよう。
 …まず、一般に、日本人の勤勉さは、「美徳」とされることが多い。例えば、政府・非政府の両面で、
「海外で活動をする日本人は、仕事熱心で尊敬されている」と言った類の言説はよく聞くものだ。だが、この手の「外人を使って日本人を上げる」というパターンは、わざわざ指摘するまでもなく、もはや完全に陳腐化してしまっており、私から言わせれば詐欺師の言動そのものである。そもそも、民族性などというものは、本質的に利点と欠点の両方を孕んでおり、慎重に取り扱っていかなければならない。そのことは、「民族主義ナショナリズム」という言葉から受ける印象を考えれば、一目瞭然であろう。
 ――さて、「日本人が勤勉である」という民族性の悪い面に関しては、
いま働いている皆さまが感じられている通りである。私はかつて、日本を素晴らしい国だと思っていた。確かに日本には、目を背けたくなるような差別や暴力は無く、自由な言論が認められており、社会基盤も整えられていて、経済的にも豊かである。ところが、その「平和」「豊かさ」と言った価値は、労働者の奴隷的貢献によってしか支えられていない。そのこと気付いて、私の中での評価は一変し、国家に対する信頼は底辺にまで失墜した。この国では、「個人としての幸せ」「余暇時間」などは全て二の次であり、「労働」こそが至高の理念と考えられている。搾取をして楽をするものなど誰も居らず、一般労働者から管理職まで全員が馬車馬のように働いている。進化した技術も、その全てが労働のために費やされる。まさしく、「奴隷の奴隷による奴隷のための国家」であり、「奴隷国家」と称するのが相応しい。

 そんなわけで。「高齢化」によって崩壊が始まった日本社会において、この労働環境の改善は急務であり、国会でも
「働き方改革」と題し、年明けから盛んな議論が行われている。しかし、私に言わせれば、そんなものは暇潰しの議論にしかなっておらず、皆さまも全く期待していないという方が大半であろう。恐らく、本当に皆の望む「改革」が行われる可能性など、クソゲーがアップデートで神ゲーになるくらいの確率しかあるまい。
 …これに関しては、
「プレミアムフライデー」と言ってしまえば十分であろう。当時、私もまだ普通に働いていたものだったが、実際に起こったことは、会話にその単語が出て、笑いものにされて、それで終わりであった。そもそも、この国の労働問題の背景に根ざしているのは、「仕事が多すぎること」「加えて、それに対する人員や予算が全く足りていないこと」であり、小手先で歪みを整えたように見せたところで、また別の場所に歪みが発生するだけである。もし、「働き方改革など不可能である」とアピールするために、このお触れを発したのならば、あまりにも悪趣味すぎるというものだ。
 ――だから、私が思うに、もし本当に政府が「働き方改革」をするつもりがあるのなら、
まずは通常国会を会期通りの150日で終えて、その後の延長も臨時国会・特別国会の招集も一切行わないようにするべきだ。当然、そうすると政治が遅れ、法律が成立しなくなり、関連する官公庁や企業の仕事もできなくなってしまうだろうが、それで良いのだ。決められた通常の時間で仕事が終わらないのならば、人や予算を増やすか、はたまた事業規模のほうを適正な範囲に縮小するしかあるまい。だから、それによって例えば国家の安全が脅かされたり、経済的豊かさが失われたりしても、仕方が無いことなのである。そして国会を皮切りに、官・民を問わず、全ての業界がこうするべきだ。労働者の奴隷的貢献によってしか成り立たない「豊かさ」など、何の豊かさでもなく、そういったものが回り回ってこの国を「貧しく」しているのだ。本当に「働き方改革」をしたいのならば、国会から定時上がりを実践してみろ。それができないのであれば、この議論も、「プレミアムフライデー」と同じく、謎空間に吸い込まれて終わるだけである。

 さらに。この国においては、
優れた人材に対して過酷な奴隷的労働を押し付け、その人物に対価も与えず使い潰すことが常態化している。要は、「仕事をするほど仕事が増える」ということであり、これは国家への貢献や労働意欲に関わる、極めて重大な問題である。やれ、私が育った時代は、「学歴」「年収」「恋愛経験の有無」などによって、「勝ち組」「負け組」などと人生の満足度を他人が勝手に判定するという恐ろしい習慣が存在したものだが、むしろ私に言わせれば、そこで「勝ち組」とされる者ほど、高い社会的責任によって苦しめられているようにすら感じるのである。
 …例えば、最近よく過酷な労働が取り沙汰される「教職員」「医師」は、人と関わる仕事であり、技術面はもちろんとして、精神面でも高いものが要求される。では、私たちは彼らへの十分な対価を与えていると言えるだろうか。
その答えは、彼らから聞こえる苦しみの声に耳を傾ければ十分であろう。例えば医師は、給料が極めて高いことで知られているが、彼らの就業するまでの努力に業務内容と必要技術を考えれば当然であり、むしろお金などもっと配ってやるべきである。「やりがい」とか「社会貢献」などといった詐欺師の言葉は、何の問題の解決にもならず、むしろ彼らをより苦しめる結果になるだけだ。
 ――さらに。私も、かつては上に挙げたものとは異なる職場で働いており、そこは「国民から誇りに思われている」などとよく言われる業界であった。だが、それが実際に働くうえでの意欲になっていたかというと、
答えはNOであり、実態のない不快な持ち上げにしか感じていなかった。なるほど、もし本当に「誇り」に思っているのであれば、例えば長い研修期間を終えて労働意欲に燃えていた者をたった2ヶ月で精神病に追い込んで退職させたり、結婚を間近にしてこれからの社会を支えていく者に何ヶ月も休みを与えず実家の両親に報告すらさせないといった恐ろしい労働環境を見て、何かがおかしいと感じるはずである。自分が「誇り」に思っている人間が、これほど厳しい労働を強いられているというのに、なぜ何の怒りの声も上げないのだ。「知らないから仕方ないだろう」と言い訳するかもしれないが、その程度も知らないくせに「誇り」などと言って持ち上げていたのか。だから、その“国民”が言う「誇りに思っている」など、思っているだけであり、その実態は道具として使い潰すうえでの都合の良い表現にしかなっていない。やれ、私はかつて、「人は戦場でも笑える(笑)などと子供じみた妄言を吐いたことがあったが、あえてその表現に乗るのならば、この国の労働環境は戦場よりも酷いということだ。法律も、従業員も守らないくせに、いったい何を守るというのだ?

 そんなわけで、この日本の将来を覆う空気は、もはや絶望的なものとなっている。日本社会は、あの人口比のグラフにように、どんどんと下が細くなっていき、やがて
下の者が支えきれなくなって、潰れることだろう。もう、どこかの段階で諦めて国を縮小するしか無いのである。
 …ちなみに、こういうことを言う私は、ひょっとすると「反社会的」と捉えられるかもしれない。実際のところ、私は今でも命を懸けてでもやるべき仕事はあると思っている。だが、
違法労働で生きがいを奪い、人を絶望に追い込むような犯罪組織のために懸ける命など、有るわけがない。それを国家が主導しているのならば、当然そこが黒幕であり、そんな悪党のために「死ぬ価値」「生きる価値」も無いというものである。
 ――というわけで。繰り返しになるが、少子高齢化によって、この国の維持が不可能となったことはもはや明白である。それを解決するために必要なことは、違法労働をエスカレートさせることではなく、国の規模を適正なものにまで落とすことである。平成の次の時代の子供たちに、奴隷国家の重荷を背負わせることがあってはならない。社会に貢献なんてしなくて良い。日本人の精神なんて継がなくて良い。身の丈にあった豊かさで、楽しく生きてくれ。

(2018年2月19日) 4387 PV

登録タグ/ 社会一般
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