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管理人の日記ログ
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今日の話を書こうと思ったとき、すぐこのセリフを思い出した |
かつて、『3』までのプレイステーションを作った
…まず、@の現行の携帯電話の処理性能は、既存のゲーム専用携帯機を大きく上回り、少なくとも性能面においては、「携帯ゲーム機などは不要になる」という予言は的中したと言えよう。物理ボタンなどの存在から、完全に携帯電話がゲーム専用機の上位互換とは言えないものの、もはや市場としての魅力は雲泥の差であり、アウトプットされるゲームの質も専用機のほうが下回るという本末転倒な感じになっている。だから、今後もしプレイステーションの次世代携帯機が出るとしても、据え置き機か携帯電話のコバンザメのような存在になるしか無いであろう。
――しかしながら。Aの、「人間同士のコミュニケーションが最大の娯楽であるから、携帯ゲーム機は時代遅れである」という考えには、議論の余地がある。もちろんこれに関しても、現在の社会において、電車で・歩きながら・授業中にも忙しく携帯電話を触っている人のことを考えると、的中していると言えるかもしれない。だが、私の考えを述べると、「人間同士の不快で面倒なコミュニケーションよりも、作品性の高いゲームソフトのほうが遥かに娯楽として優れている」と思うのである。これはもちろん、ゲームに限った話では無く、映画でも本でも同じだ。それでは何故、もう20年近くもインターネット世界で生きてきた私が、このような考えに突然至ったのだろうか?
まず。ここ最近の私は、人と関わることに疲れ果ててしまった。去年に仕事を辞める前後から精神的に不安定な状態が続いており、特に「人と人との争い」を見るのに極めて強い嫌悪感を覚えるようになった。例えば、以前は好んでテレビのニュースなどを見ていたが、やがて不快な情報しか流れて来ないことに気付き、意図して避けるようになった。また、少し前までは好んで見ていた、いわゆる「まとめサイト」や「ネット掲示板」なども、最初は自分と同意見の人が多くて心が落ち着くような思いがしたものの、その仲違いから垣間見える心の汚さや、話題性を作るためにわざと不快感を煽る内容に嫌気が差し、綺麗さっぱり見ないようにした。特に、いわゆる「ゲハ」と「政治」は、徹底的に排除している。これにより、余暇時間でわざわざ自分から不快になることが無くなり、かなり心が安定するようになった。
…そして、代わりに私の生活に登場をしたのが、オフラインのゲーム・映画・本と言った、他人と関わらなくて良い娯楽である。特に、「本」に関しては、「ゲームや携帯電話は低俗だが本は高尚である」といった差別的な見方が未だに多くされているが、良くも悪くもメディアの一種であり、私にとっては遊びの一つである。具体的なメリットとしては、古本屋を使えば1冊108円で購入ができ、電気や設備など他の物を使わずに楽しめ、内容も多彩である。こういった、時代遅れのレトロなテクノロジーが、信頼性が高く現代でも通用するという事態は、往々にして起こりうるものだ。
しかしながら。オフラインゲーム・映画・本にも、必ず製作者というものが存在し、一定の思想の元に作られていることが大半である。ならば、それらの作家性の高い作品を味わうことは、いわば「作家とのコミュニケーション」、つまり人間関係の一つと表現できるかもしれない。しかしながら、いわゆる「まとめサイト」やネット掲示板での有象無象との交流は私に不快感をいだかせ、作家とのコミュニケーションは喜びをもたらす。これらの本質的な差は、恐らくは「コミュニケーションをする相手の思想が、自分と合っているかどうか」という点に集約できるであろう。
…やれ、この「コミュニケーション相手の思想」とは、もっと端的な表現をすると「知的水準」と言っても良いかもしれないが、そうなるとまた「高学歴=高尚」「低学歴=下劣」などという無用な争いに巻き込まれるため、それをあえて「思想」と表記することにする。そして、求める「思想」が、例えば人によっては知的好奇心だったり、人によっては本能的な感情だったりする。なお、ここでは必ずしも「知的=善」「本能=悪」という位置付けにはしないことを触れておきたい。そういう下賤な区分による自己肯定は、私の最も嫌いとするところだ。
――よって、これらの事実から、私の趣向のみについて判断をしてみると、例えばオフラインゲームや映画・本であったとしても、下劣な感情を煽るような低品質の作品では全く意味がない(もっとも、商業作品ではそういうものは落とされるのが大半であるが…)。また、仮にプロで無い一般人同士の交流であっても、興味深い内容について取り扱えるのであれば、直接の会話でもインターネットでも大歓迎である。このホームページも、どちらかと言えば大勢の人が集まる場所というよりは、作家性の高い場所であると言えるだろう。これは、「管理人が作家として優れているか否か」という話ではなく、「個人の思想が色濃く反映され、それを共有できる人との間で楽しむページ」という意味である。
そういうわけで。まとめると、私はかつて予言されたように「コミュニケーションが人間の最大の娯楽になる」とは思っていない。もちろん、本質的には、人類の娯楽は全て他者との交流であろう。しかし、社会やネットワークを介した不特定多数には、様々な思想の人間がごちゃまぜになっており、自分と異なる思想の人が大多数である。そういった者にわざわざ関わり、自分から疲れにいく必要は無いだろう。だから私は、コミュニケーションを極限まで縮小し、自分と思想の合うほんの一部の人とのみ付き合うことにしたのである。その顕現が、私にとっては「テレビやインターネットやSNSでの罵り合いを避け、オフラインゲーム・本・映画といった作家性の高い作品を楽しむ」という手段になったのだ。
…やれ、私は去年、精神的に不安定になって臨床心理士の世話になっていたとき、「アドラー心理学」というものを勧められたことがある。その内容は、「全ての悩みは人間関係である」という言葉に集約できる。その通りである。コミュニケーションは素晴らしい娯楽となりうるが、それ以上に悩みの種になりやすく、現実には人間関係を
――やれ。世間は平成も終わる時代になり、「携帯電話」という人間の可能性そのものすら進化させうる機器が登場した。それにも関わらず、人は未だに原始的な感情から来る争いに終始している。恐らく、どれほど電子機器が進歩しても、この傾向は変化しないだろう。私は、そういうものは、もうたくさんだ。21世紀のこの世の娯楽は、旧世代のオフラインゲームや本・映画に逆戻りした。しかしながら、意外にもそんな毎日は凄く楽しいのだ。だから、「コミュニケーション」に疲れ果てている人は、いったんそれを捨ててみてはいかがだろうか?
(2018年5月16日)
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