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管理人の日記
結論:大人(先駆者)がやり込みプレイを楽しんでいる様子を子供(新人)に見せるべき
マリオ64は1996年発売、歴史的名作で、3Dアクション界のFF7です(他2つはやったことない…) |
子供は天才である。まずは、私がそれを身をもって体感するに至ったエピソードから紹介していこう。
…先日、いま流行りの「ニンテンドースイッチ」を、私が実際に触らせてもらう機会があった。ソフトは、「スーパーマリオ
3Dコレクション」という、過去の3Dマリオ作品×3が移植されたものであり、64時代の「マリオ64」、ゲームキューブの「サンシャイン」、Wiiでの「ギャラクシー」が収録されている。私は、マリオ64はDSへの移植の際に遊んだことがあり、やったことが無いのは後者2作であったので、せっかくだからということで、新しいほうの「ギャラクシー」を30分ほど遊んでみたのだ。
さて、任天堂作品というと、「誰でも楽しめる」「親切で簡単」「子供にお勧め」などというイメージが強い。が、私が「マリオギャラクシー」から受けた印象は真逆であった。
…まず、Wii時代の悪癖が今も残っているのか、ゲーム中では、ボタン操作で良いのに、タッチパネルやモーションセンサーを強制する場面(当時ならリモコン操作?)が多々存在する。また、「Joyコンを振る、またはYボタンでスピン」(スイッチ版)などと攻撃アクションの説明が行われたが、Wiiの頃は「リモコンを振る」という動作が必要だったようで、基本操作のたびにそんな行為をしては、あっという間に手が腱鞘炎になってしまう。そして、「ギャラクシー」のテーマは文字通り宇宙であり、“重力を持った小さな星”を冒険していくのであるが、カメラがぐるぐる回って天地が入れ替わり、右スティックで操作ができるような機能も無いので、3D酔いで気分が悪くなってくる。スイッチ版ならば、一応「本体を回転させながらゲームを遊ぶ」という変則的な方法で解決が可能である。つまり、Wiiの頃なら、テレビを回転させるか、または自分が壁や天井に張り付くという手段が良かったのかな?
――最後に、純粋なゲーム内容としても、初期ライフが3のうえに、残機も少なく、即死トラップの落とし穴まで多いという感じで、難易度が高い。これのどこが、「誰でも楽しめる」で「親切で簡単」で「子供にお勧め」なのか…。
しかしながら。そこまで考えて、ふと私は思ったのである。「誰でも楽しめて、親切で簡単」な物が、本当に「子供にお勧め」なのか?
…さて、今さら私が言うまでもなく、小さな子供の学習能力は大人よりも遥かに上である。そのため、「マリオギャラクシー」のようなえげつない3D動作をするゲームであっても、あっという間に慣れてしまうことだろう。「ギャラクシー」は2007年発売のため、それをプレイした子供たちは、今だいたい20歳前後というところだろうか。その年齢層の人たちのことを、Z世代とかいうドラゴンボールみたいな名称で呼ぶようだが、そういった若者は、今はオンラインでの対戦シューティングに明け暮れている。幼い頃から3Dゲームがあったからこそ、そういう先進的なゲームが楽しめるのかもしれない。
――逆に、私が思うのは、「誰でも楽しめて、親切で簡単」な物が必要なのは、むしろ大人のほうなのではないかということである。当然、私もこちら側の立場であるため、自戒的な意味も込めているのだが、大人はすぐに諦めて、すぐ言い訳をする。ステージをクリアできなかったり、物語が理解できなかったりすると、「ゲームの側が悪い」と言い出す。財力に任せてゲームを買い、1時間くらい遊んで満足し、また別のゲームを買って同じことをする。だからこそ、そういう大人たちを引き込むために、「誰でも楽しめて、簡単で親切」なゲームが必要なのだ。やれ、ゲームが“子供の娯楽”だった時は、「イージーモード」なんて無いゲームが多かった。それが、年齢層が広がり、様々なプレイヤーに配慮するために、難易度選択が取り入れられるようになった。つまり、大人が遊ぶようになったから、イージーモードが搭載されたのである。昨今のゲームがやたら親切なのも、間違いなく大人がすぐゲームをやめてしまうからという理由によるものだろう。「遊ばないなら、何のためにゲームを買うの?」と言われるが、私もちょっとよく分からない…。
プレイ時間が長くなりやすいのでソフト代を節約できる、というのは親御さんにとって魅力かも |
さて。ここまでは前置きとして、ここからは「やり込みプレイを子供に普及させるためにはどうすれば良いか?」ということについて考えていこう。「やり込みプレイ」という文化が、この先もずっと楽しめるようにするためには、若い力の流入が必要不可欠である。
…まず、私に関して述べてみると、インターネットが一般家庭に普及し始めた2000年に、他サイト様に掲載されていたやり込みプレイ日誌を見て、「こんな遊び方があるのか!」と感激し、そこから「FF8のジャンクションなしクリアー」を行ったのが、やり込みプレイを始めたきっかけである。当初は、その日誌を他サイト様に投稿させていただいていたが、やがて自分でサイトを作成し、日誌を掲載するようになった。これが、だいたい20年前、小学6年生の頃の話である。当時の文章は、若干のリファインを施し、今も【FF8:ジャンクションなしクリアープレイ日誌】として残している。
――ということで。「やり込みプレイの普及」に関して重要なのは、まずは自分のやり込みを他人に見せることであろう。そのために、私はサイト更新はもちろんとし、最近ではSNSや動画サイトなども通して、様々な形で活動を発信している。ただし、あくまで「ゲームを通して自分の創作物が見てほしい」のであって、「何でもいいから有名になりたい」にはならないよう、気を付けているつもりである。ここは、ゲームの話をするところであって、他の雑念を持ち込んではならない。仮に持ち込まれていたのなら、それは私もまだまだ浮世離れができていないということであり、猛省しなければならない。
さて。私がやり込みプレイを学んだ手順は前述の通りとして、それとは別のところにあるのが、子供にゲームを普及させるためには、親御さんへの考慮が必要不可欠ということである。何故なら、多くの場合において、ゲームを子供に買い与えるのは、その親であるからだ。
…やれ、たまに、任天堂界隈から「ゲームが親から敵視されないようにする」みたいな( ?∀?)「?」という発言が出てくることがある(2006年/【社長が訊く:Wii
プロジェクト Vol.3】など)が、これは「子供に売っているのではなく、その親に対して商売をしている」と考えれば納得できる。ゲームを親に購入させるのだから、ゲームのプレイする人自身よりも、その親の気持ちが重要なのだ。そのため、「敵視」という表現が、ゲームを趣味としている大人たちに反感を覚えさせるようなこともあっても、客層が違うので仕方ないのである。
では、「子供がやり込みプレイをすることによる、親へのメリット」とは、果たして何なのだろうか。それを言うと、残念ながら、明確なものとしては「ゲームを買う本数が少なくなり、お金を節約できる」という点くらいしか思い付かない。しかも、本当のやり込みプレイヤーとなると、環境が気になってくるため、ウン十万円の高性能PCが必要になったり、Xbox・プレイステーション・任天堂系列の全ハードを揃えだしたり、高画質での録画環境を求めたりと、かえってお金が掛かってしまう恐れすらある。「FF5・FF6のアドバンス版をプレイしたいから、それだけのためにWiiUスプラトゥーンセットを新品で買ってくれ(37000円+税)!」(【日記:2017/3/19】)などと言われたら、もう親御さんとしては絶望的であろう。
――その他、大人というものは、自分のことは棚に上げて、子供に対し「勉強しろ」「本を読め(何の?)」などと発言するものであり、ゲームに関しても、「そのゲームが子供の将来のために役立つか」などという付加価値を異様に気にする。では、やり込みプレイが、子供のスキルアップのために役立つかと言うと、そんなことは全く無い。私は、サイト作成のために、ワープロソフトからプログラミングまで、様々なパソコンについての能力を身に着けたが、社会で役立つと言えばせいぜいタイピング速度くらいであり、コンピューターを専門的な仕事とするには何もかもが足りない。また、人より勉強ができるというのも、「高校時代にピンポイントで勉強した結果、点数が伸びて面白かったので、それが自分の生きる道と勘違いした」というだけであり、やり込みプレイとは関係の無い別事象である。
楽しいことをするのに理由なんていらない。楽しいこと、それ自体が価値だ |
ということで。ゲームのやり込みプレイによって得られるメリットは、せいぜい「ソフトを買うお金を節約できる」という程度であり、あとは楽しいくらいで、特に他の分野に繋がることは無かった。しかしながら、私は、この「楽しい」というメリットが、何よりも重要だと思うのである。
…やれ。ゲームは、ただ遊ぶだけでも十分に楽しいものだが、何らかの目的意識をもってプレイすれば、更に奥深く“やり込む”ことが可能である。やり込みプレイによって得られる面白さは、ただゲームを受動的に遊ぶだけのものとは、一線を画しているのだ。そして、それを文章などで書き表せば、そこに自己表現としての楽しさがある。私にとって、やり込みプレイはただのゲームではなく、創作活動なのだ。
――また、もう20年もやっているとあって、私の人生で、「ゲームのやり込みプレイ」を超えるものは、今後も出てこないだろう。ゲームのやり込みは、私にとって一生の娯楽である。だから、これから先、表現手段が変わってきたとしても、根本にある「ゲームを遊んで、それを何らかの形で表現する」という要素は、決して変化することはない。仕事がつらい時も、家に帰ればゲームができるというのが、生きがいであった。また、忙しい季節も、それが終わればゲームのやり込みプレイを再開して日誌が書けると思えば、我慢ができる。こういった人生の目的意識を持つことは、本人にとって実に有意義である。楽しいことは、「楽しいこと」自体に価値があるのだ。
そういうわけで。私は、やり込みプレイは…というより、ゲームを遊ぶこと自体が、子供にとって終生の趣味を与えるということで、親御さんにも意味があると考える。そのためには、受動的に遊ばせてそれで終わりでなく、能動的に遊ぶことのほうが好ましい。また、それを「楽しかった」という気持ちだけでなく、文章で表現させれば、作文能力の向上にも繋がる。やれ、国語学習としての読書感想文は、「本を読むこと」と「文章を書くこと」の2つを問うていると考えられるが、「ゲーム感想文」でも間違いなく「書くこと」の能力は得られるだろう。
…また、具体的なゲームの内容としては、その場での反射神経を問うものより、たくさんの要素から取捨選択をさせるもののほうが、思考力を鍛えることに繋がるだろう。おお、「RPGのやり込みプレイをして、その日誌を書く」って、最強じゃないか!
――ただ、そんな他分野へのメリットとかではなく、純粋に「子供に対して、熱中できるものを与える」という意味で、ゲームをさせても良いと考える。今の時代は、クソったれた上昇志向よりも、仕事と生活のバランスを取ることのほうが重要だと思う。勉強や読書を無理に押し付け、自分の頭で考えられない人間を作ったところで、せいぜい社会の歯車・ネジの機械の体が関の山である。それよりも、子供に自分で熱中できるものを見付けさせ、それを“ずっと楽しめる趣味”へと昇華させていくことのほうが、よっぽど豊かな人生を送ってもらえるだろう。確かに、ゲームが「いま楽しい」だけなら、そのとき楽しくて終わりである。しかしながら、それが「ずっと楽しめる」なら、その人の人生にとって非常に意味があるのだ。
やれ、今の社会は、物質的に豊かとなり、娯楽も多様化して、人生の楽しみ方も盛りだくさんとなった。間違いなく、昔より良い時代になったと思う。
…それなのに、その進歩した技術を用いて、ネット上でのつまらない罵り合いに時間を費やしたり、インターネットで少し検索を掛けただけで専門家と対等に話ができると過信したり、自分より下を探し出して安心したりと、原始的な争いにしか身を投じられないのであれば、人間は技術の進歩によってむしろ退化している。大人が、子供に対してそういう生き方しか見せられないのであれば、実に嘆かわしい。何のために進化をしてきたのだ…。
――だから、私が思うに、大人は、その身をもって、子供に「人生の楽しみ方」を教えるべきなのだ。その楽しみ方の一つとして、「ゲームのやり込みプレイ」は悪くないと思う。私も、大人/子供という区分でなく、ゲームの面白さや奥深さを他人に伝えようと思って、こんなサイトをやっている所存だ。
(2021年1月11日) 4327 PV
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