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管理人の日記ログ
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殺伐とした日本社会にキャベツが!! ● ● ●
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◆テーマ@:キャベツ
私は、サラダ用として、これまで「レタス×2個」を、週1回の買い物で購入していた。しかし、最近では、「キャベツ×1個」に切り替えたのである。
…というのも。ふだん私が使っているスーパーは、これまで世間の値上げの流れに抗い続けてくれていたのだが、先日ついに、私が継続購入していた牛乳(分類は「乳飲料」)が、137円→147円と、値上がりをしてしまった。
――また、レタスについては、旬が過ぎたということか、1玉の価格が、100円台前半から、一気に200円代にまで上がってしまった。さすがに、これを1週間に2個買うというのは、「レタス!
無理だあっ!!」と言わざるを得ない。ジャッジマスター級の給与がなければ不可能である(言い過ぎ)。
しかし。そんな殺伐とした日本社会に現れたのが、神野菜:●キャベツ●である。
…やれ、キャベツは、かつてのレタスと同じくらいで、1玉が100円台前半である。そして、初めて気付いたのだが、キャベツは、どうもレタスよりも食べられる部分が多いようで、1玉で1週間分のサラダが余裕で用意できる。
――さらに。これまで私は、「レタス2玉で1週間」という習慣を維持していたが、レタスは足が早く、週の最後あたりになると、グショグショに崩れて、前向きな気持ちで食していけるような感じではなくなっていた。だが、キャベツは、1週間くらいは余裕で、むしろまだまだ行けるという感じである。
というわけで。私は、これまでのレタスの里から、キャベツの山に乗り換えるに至ったのである。
…具体的なメリットを述べると、まず現在ではレタスが値上がりしており、1玉の値段自体がキャベツのほうが安い。仮に同額だったとしても、「キャベツは1玉で食べられる量が多く」「日持ちをする」というメリットがある。これを覆すには、レタスはキャベツの1/2の値段でなければならない。
――その他の点として、もはや私は、週1回の買い物ですらめんどくさくなってきた。これまでは、レタスの消費期限がボトルネックとなっており、週末には買い物に行かざるを得なかった。だがそれを、キャベツによって取り払えれば、更に買い物の間隔を広げられるかもしれないのだ。
まあ、正直。個人的には、半年間レタスをかじり続けており、さすがに飽きたという点が大きい。しかし、これまで無かった、「季節によって安い食材を購入する」という観点は、重要であるように思う。一人暮らしだと、食費が一番のネックなのだ。耐えねば…。
久しぶりに良いキムチへと出会えた。買い支えなくちゃ… |
◆テーマA:キムチ
私は、ここしばらく、韓国界の漬け物・キムチを、全く買わなくなっていた。その理由は、キムチ自体が嫌いだからではない。日本製のクソみたいな偽キムチを引き当てる可能性が、あまりにも高くなっていたからである。
やれ、私は、キムチほど、風味の差が激しい食べ物を、他に知らない。キムチは、もともと臭くて酸っぱく、決して大勢に好かれるような味ではなかった。しかし、だからこそ、私のように猛烈なる愛好家を生むに至ったのである。だがそれが、時が経つにつれ、日本の大衆社会へと媚びていき、酸っぱさも、“キムチ臭さ”も無い、不出来な「キムチ風の漬物」へと化わっていってしまった。もちろんそれは、「日本社会」という市場で販売をしていくためには、必要な変化だったのかもしれない。だが、そんなものは、私の好きだったキムチが歩むべき道ではないのだ。
…そうして。スーパーで、「韓国直輸入!」だとか「本場の辛さ!」などと記されているキムチを買って、一口食べただけでゴミ箱に捨てたくなるような酷い経験を重ねるうちに、私はいつしか、「キムチは買わない」というふうに変わっていたのだ。私は確かに、元々はキムチを好きだった。だが、時が経つにつれ、粗悪な模造品が、完全に市場を支配してしまった。悪貨が良貨を駆逐したのである。“スシポリス”ならぬキムチポリスが検閲をするということもなく、順調に、日本で買えるキムチは、大衆迎合をした無個性な品目になっていったのである。
――ちなみに。かつて、仕事で韓国旅行に行った(?)際には、現地の焼肉屋でキムチを振る舞われる機会があったが、その「キムチ」は、私の期待するキムチそのものであった。しかも、キムチはおかわり自由である。よって、韓国国内で愛されるキムチは、今も臭くて酸っぱい物のようだ。となると、「韓国直輸入」のラベルから、日本のスーパーに並ぶような紛い物が生まれてくる理由は、「韓国が日本へとキムチを輸出し、足りなくなったキムチを中国から輸入する」という関係が、今も成り立っているからかもしれない。この3国の力関係も、私が子供だった頃とは、かなり異なってきたと思っていたが…。
しかし。ここ最近、それらの懐かしい思いを少しだけ胸に秘めて、近所のスーパーでキムチを買ったところ、やっと当たりと言えるような商品に出会うことができた。ちゃんと臭いし、ちゃんと酸っぱい。単品でご飯に乗せて食べるのはもちろんとし、ラーメンやカレーといった特徴的な食品のトッピングとして加えても、ちゃんと風味が残ってくれる。私が愛するキムチそのものである。やっと出会えた…。
――というわけで。私は、ふだん通っている“少し遠い格安デパート”とは別に、主にキムチを買うために、近所のチェーンスーパーへと訪問をするようになった。私は、“1週間に2回”の買い物に出かける。その心は、「週の真ん中と週末に、出かける」という意味ではない。週末の同日に2回買い物へと行くのだ。もちろん、実際に買うのはキムチだけではなく、メインとなる格安デパートだけでは足りない、“体積や重量の大きい商品”を、その近所のデパートにて補充するという意味合いもある。やはり、独占タイトルならぬ独占キムチというのは、重要なことなのだ…。
ところで。かくして私は、自分の理想と言えるキムチを見つけたのであるが、実は、決してこれで安泰というわけではないのだ。
…というのも、私の好きな原理主義的キムチは、どうも日本の大衆には人気が無いようで、あっという間に入荷されなくなってしまうのである。しかも、ご存じの通り、キムチは保存食を出身としている分際で、賞味期限が短いという矛盾した食物であり、大量にストックしておくこともできない。
――よって、今後とも長らく楽しみ続けるためには、私のような信者が、買い支え続けるしか有るまい。キムチは待ってはくれない。握りしめても、開いたと同時に離れていく。まるで恋みたい。恋みたい…。
ああ、10年経っても変わらない、お美しさであることよ |
◆テーマB:肥満
近日、地味に体重が増加している。
…まず、少し前までの状況を言うと、外出自粛とかほざいていた2021年を使って、私は84kg→66kgへと、一気に減量を果たした(【日記:2021/12/29】)。まあ、当時はニート同然の環境だったうえに、内向的な行動だけは一人前の私にとって、食事制限だとか、毎日のランニングだとか、そういった習慣は、屁でもないというものだった。しかし、ここ最近は、徐々にであるが、維持していた体重に増加傾向が見えてきたのである。
まあ。統計的に、最も病気が少ないのは、BMIが22程度であると知られており、私の身長だと、それは体重70kgちょっととなる。この1年、私は数年ぶりに働き出したということもあるが、何が何でも体調を壊しすぎだ。毎日毎日、仕事で尋常じゃないくらい疲れているのもそうだし、この夏に、あの世間を騒がせている糞ウイルスにやられてしまったのも(【日記:2022/8/8】)、ひょっとすると、無理に体重を絞ってしまったからかもしれない。
――しかし。体重が増えるのが許容範囲とはいえ、いくらなんでも急激に増加しすぎである。私はかつて、60kg台から70すら超え、80kgに達し、その増加傾向に歯止めを掛けられなかった。私は、デブの素質を持っているのである。食欲を制御できなければ、また再び、いつでもデブになれるのだ。
そういうわけで。私は少しだけ、いつもの食事に“減量”という観点を持ち始めた。ただし、かつてのように、体重を減らすための食事制限ではなく、現状維持という視点でのやり方である。
…具体的には。私は、休日の昼に楽しみとしていた、「カップラーメンをトッピング盛り盛りにしたうえで、残り汁にお米1合を加えて、カップラーメンライスにする」というゲテモノ食をやめることにした。さすがに、こんなものを1週間に2回も食っていては、デブ&高血圧まっしぐらである。また、浮世の疲れを忘れるための飲酒の習慣(【日記:2022/6/14】)自体は、現状維持としたものの、つまみとしていたパッケージのスナック菓子を買わないことにした。飲酒中の食欲というのは無限大で、それを我慢するのは、誰であろうと難しい。よって、すぐ手に取れるような食物のほうを、取り除かねばならぬ。
――という感じで、私は少しだけ、“体重の増加を制限していこう”という観点を持つことした。もしこれで、更なるデブさん化を避けられないのであれば、また強力な措置を取らなければならない。やれ、私の知り合いの一人に、「体重計に乗るのが嫌だ」という人が居るようだが、とんでもない。むしろ、毎日のように体重計に乗って、体重が乱れる兆候を察知し、早期に対策を打たなければならない。戦わなきゃ、現実と。
(2022年11月08日)
お前のような32歳が居るかっ! |
創作作品における「30代前後の男性」は、若さに任せた10代〜20代前半の男と違い、魅力的ではないかと、今さらになって思うのである。
…まず、私も、サイト開設から20年以上が経つ今となっては、30代の“中盤”に近い年齢となってしまった。もう、間違いなく子供ではないし、“オッサン”と呼ばれたとしても、抗議できるような身分ではなく、むしろ、客から「お兄さん」などと呼ばれてしまうと、それを何日も覚えていて、「イヒヒw」とキモい嬉しさを感じてしまうような立場となっていたりする。
――そして、これまで様々な職場を転々としてきた結果、今となっては、職務上の上司と言える人たちですら、世代違いと表現すべきくらいには年下となってしまった。残念ながら、私は彼らを同格とは思えず、異星人のような見方をしてしまう。彼らは、私より年齢が低いのに、何年間も、このクソ社会で耐えながら働き続けている。だが、いきなり怒ってきたりなどと、理解不明な生命体でもある。この矛盾を、どう解決するべきなのか、私には分からない。
さて。そのような現実を踏まえたうえで、私は、「30代前後の男性」というジャンルは、なかなかもって惹きつける魅力があると思うのである。まず、私の最推しであるファイナルファンタジー作品における、“30代前後”のキャラクターを、紹介してみることにしよう。
お分かりいただけただろうか。これらの爺キャラは、FF主人公たちの“熱くて勢いの有る感じ”とは一味違って、酸いも甘いも分かっている感じで、攻めの男性たちとして描写されている。こういったキャラクターたちは。もはや私が少年とは言えないような時代になった今だからこそ、共感を覚えるのだ。
――やれ、FFシリーズの登場人物たちは、理不尽な死の運命に翻弄されつつも、自分を貫きながら仲間たちと力を合わせ、超展開をもって、それぞれの物語を解決し続けてきた。そういった暑苦しい物語に共感してしまうのは、いつの時代・いつの年齢でも変わらない。そのうえで、FFシリーズ作品たちが、最新作としての発売日から遥かな時間を遂げてきたからこそ、“かつての年上キャラ”たちに、奇妙なシンパシーを覚えてしまうのだ。
なんだこのイケメンはッ!? |
続いて。FFシリーズ以外における、30歳前後のキャラクターたちについても、参考程度に紹介をしてみることにしよう。
というわけで。なんか、バイオハザード博覧会みたいになってしまったが、創作作品における「30歳」の取り扱いは、大体こんな感じとなっている。
…やれ、上記のキャラクターたちは、どれも、若いだけの人物とは異なり、精神/肉体ともに成熟した雰囲気を見せつつも、まだまだ暑苦しい感じも残している…という感じで、独自の魅力を醸し出している。
――やれ、私は、「子供と大人」という2つの属性を併せ持った10代後半〜20代前半という人々はもちろん、その後の「青年と中年」という、もう一つの過渡期についても、創作作品の扱いにおいて、同じような魅力を感じざるを得ないのである。子供と大人が合わさり、最強に見える…。
30過ぎても自分のやりたいことを貫いてるって、最高じゃん |
そういうわけで。残念ながら、時間はどんどんと進んでいく。かつて、流行の最先端であった「個人ホームページ」も、今となっては、生きる化石のような扱いを受けるようになってしまっている。
…しかし、それでも。変わり続ける世の中で、変わらない価値というのは有ると思うのだ。私は、「やり込みinFF」の管理人として、様々な手法を試しつつも、「テキストベースの」「FFやり込みプレイ」という方式は守り続けていきたいと思っている。今後、40代になろうとも50代になろうとも、それこそ1000年が経とうとも、この手法は、ずっと変えないでいきたい。
――やれ、様々な技術の進歩によって、長生きができるようになった時代、もはや肉体の年齢などは、大きな問題ではない。そしてそれが、他者の目線からどう思われるかなどということも、もはや無意味である。幾つになっても、自分が本当にやりたいと思うことをやり続けるべきであると考える。そうして、そういう人たちは、年齢も性別も国籍も関係なく、ひとえに魅力的であると思うのである。
(2022年11月08日)
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